肉体関係を目的にしたセックスは、落ちていくセックス。
精神的な愛を目的としたセックスは、昇っていくセックス。
性と人間の法則/Sex and The spiritual path(セックスと霊的な道)エドガー・ケイシーによれば霊的成長を遂げるべく私たち人間は、男女として分けられたこの地球における試しの人生において、正分合の作用に基づいて、12対象目的の愛の試練に遭遇しているのであります。 こちらを参照)
「地上で解かれるものは天上においても解かれる」と聖書にあるようにして、地球星自体が縮図星となっていることに気づくのであります。天上に神と言う存在がおられ、その神の国にあってしても解決できない難題が私たち地球に置いて解決される期待を持って、創造されたものと推測されます。
イエス・キリストでさえ十字架に挙げられたこの経緯については、末日聖徒イエスキリスト教会の創設者であるジョセフ・スミスもやはり100人の黒い顔の暴徒に襲われて、兄とともに銃弾に倒れたのは、このことと同じ理由によるものであると推測されます。万能の神からすればいとも簡単に介入して、救い出すことが可能でしょう。神様ご自身が反対の存在との抗争において、苦心した末にこの地球を創造されたものと考えられます。地球が奪われることを想定していたと言うことです。
イエス・キリストにあってもジョセフ・スミスにあっても、自身の実力(人本性*)によって克服することを期待された神様であったと思われます。あの旧約聖書における、モーゼの活躍こそ、ヨシュアとともにさらにアブラハム、イサク、ヤコブをエジプトのヨセフとこれらの礎の上に現れたモーゼでありました。さらに、ダビデ、ソロモンと際立って出現してきます。この地球星の奪還に対して神と人類が共同で活動することを通して、エデンの園の回復が起こり、それは地上天国であり、天上天国からの私たち太陽系の惑星寄港地となるのであります。神の到来が起きると言っているのであります。
*人本性:人道主義とは、人の道を行くプロセスに偏重して不完全なままで胡座をかき留まろうとしがちです(不可能な理想)。これに対し人本主義とは、人そのものを基本として自己実現した完成実体との比較反芻をするのです(実現可能な理想=信仰)。
しかるに、人類が自らの努力によってこの水の惑星地球の天国創建をなさなければならないと言うことが結論として出てくるのであります。まさに聖書のテーマがここにあったのです。旧約聖書、新約聖書はわかりやすい部分を削られ、また改ざんされ、人の心が惑うように付け加えられた文章によってこのテーマは埋没してしまいました。
欽定訳聖書などの国王を中心とした編集委員たちは、その当時の国体護持を目的とした編集をしているからです。聖書外典偽典として排除されたセイクリッドスクリプチャーの中にこのテーマが真実として埋没していると類推できるのであります。エノク書にそれがある。さらに、仏教でいうところの埋蔵教に該当する聖典として、『死海文書』他があります。また、多くの発掘された、洞窟の中の壁画や、ヒエログリフも含めて広い意味での埋蔵教として位置づけることができるでしょう。
ここに右脳を中心とした直感力に頼り、溢れんばかりの情操という人道主義より人本主義に根ざした人間性に基づいて、真摯なる愛の発露としての敬虔なる心情が鍵となってロックを解錠できるのです。
これは、DNAのアップデートを指しています。キリスト教のアプローチ、つまり信仰と言うアプローチの他にも、瞑想によるもの、ヨガや、禅、タントラ、房中術双法、カレッツァ等などチャクラの活性化を伴うものがそれです。「七つの鍵を解く」、「七つのチャクラの開示」、「サードアイ」、ヒントがここにあります。気という生体エネルギーを、空間の場から得る手法も。
主なる神様の壮大なる願いこそが、地上天国創建であったのです。それはまた人類によるテラフォーミングでもあります。私たち一人一人が、このことに気づいて、自身の人生の目的として生涯を費やして果たしていきましょう。
罪を憎んで人を憎まず。汝の敵を愛しなさい。健康な人には医者はいらない。とイエス・キリストが残した言葉の中に、解決の糸口が隠されていることを見出すのであります。原罪こそまさに心理学で言うエゴのことであって、私たちの心の中に出現してくる獣であります。このネガティブなマインドこそが、原罪の現れであります。キリスト教では7つの大罪と表現されている、傲慢、妬み、怠惰、憤怒、好色、暴食、強欲となりましょう。私たちの心の中にはびこるこの原罪こそが、サタンによってもたらされたのです。
善悪知る木の実の喩えからも示唆されているように、私たちが善と悪を自覚する行為とはなんでしょうか。食べると比喩されている行為は?食べるときに用いる肉体の器官は口唇であります。私たちはデートをするときに男女は互いに食事するではありませんか。まず最初に上の唇で、次に下の唇で。ここから、私たち人間は不純なる異性交友をなすときに、罪を犯したことを自覚します。セックスのあり方によって善か悪かを知るのです。ここに善悪知る木の実を食べたと言うこの比喩によって示唆されている行為が何か理解できるのです。
私はアベルの側のモラルを述べているのであって、カインの心は反対ですから、呵責も反対ですから。カインは罪そのもの?では可愛そうなので、罪シンドロームでありますからネ。
善人とは罪がキャリアの状態であり、罪により発症してしまったものが悪人なのであります。潜伏期間の後に、善悪知る木の実を食べる年頃に、その食べ方により、発症するのです。個人の自由意志により誤った選択によってもたらされます。また、強制的に個人の願わない忌まわしい強姦と言う行為によっても発症します。愛を目的とした交わりはこれを回避しますが、官能を目的とした交わりは発症に至ります。このことを、我知らず繰り返すごとに、キャリアの状態から発症へと近ずくのです。
罪に堕ちて悪人となったわが同胞は、サタンに洗脳され彼を囲む垣根となって、同胞である私達に挑み、彼ら自身が罪に落ちた手法を繰り返して、私たちを堕落させようと試みるのであります。その誘惑と迫害は想像を絶する活動を伴って、まさに、ノンフィクションなのです。
「終末に当たって、悪魔教徒を通して神は獣も人も等しく試す。そして、自分がいかなるものか自覚する。」と黙示録にあります。またこのようなことも書かれています。「なすがままにしておきなさい。良いことをするものにはますます良いことを、悪事をなす者にはますます悪いことを。」これは毒麦と麦の分離の促進を促すものでしょう。
罪に落ち悪人となった同胞は、自からが直接神の相対となりえず、むしろサタンの相対となっており、神の相対である善人が悪人を取りなすときに、また悪人が善人を仲保として屈服するときにのみ、神は自らの御霊とともに精霊を彼らに遣わすときに救われます。したがって、私たちは1人でも多くの同胞を帰還に伴わせるべく、寛容によって導く最後の時にあるのです。善悪分離状態にし人の子から人類に貶めた主犯であるサタンに決して屈服せず分別し、善人(キャリア)も、悪人(発症している同胞)も最後まで耐え忍び、サタンに引き落とされることなく、アセンションしていかなければなりません。
アフターダークと呼ばれる暗黒深宇宙圏内に浮遊するサタン星にあたっては日々殺戮の連続であって、
まさにイルミナティのような一握りの支配層が多数の奴隷を従えているのです。
罪を憎んで人を憎まず。イエス・キリストも罪は憎むものであります。一握りの罪そのものであるサタン的獣存在が、私たちの正敵であります。この者によって、拐かされて蔑められた存在は、我らの同胞であり、情状酌量の余地があって、寛容によって見極めていかなければなりません。
ほとんどの組織集団において、観察してみる時に、1人の奸佞邪智な存在が見出される事が否めません。彼らは、我らの反対の寛容をなして、毒を撒き散らし不快な気分にさせ、憎しみを煽り、悪の心の比率の増幅を狙っておるものと推測されます。双方が、呵責の反転を狙っているのです。果たして、どちらに軍配が上がるのでしょうか。
皆さん、考えてみてください。次の言葉にヒントが隠されていますから。「神は命をもたらし、サタンは死をもたらす。」と聖書にあるではありませんか。万民共通皆イエスの3大試練を通過していることをお気づきになりませんか?「最後に愛が勝つ」の歌こそその結論なのですから。
つづく
性の意味目的:スピリティズムマニアのタワゴト(私の近視的?悟り)
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