地球存在の二つの類型
依存者は自ら従属する依存者と、またこの者たちを従属させる依存者に分かれていくのである。つまり、依存する従属者とはそれは奴隷のことであり、また従属させる依存者とは、主人つまり奴隷使い達のことである。このようにして依存者達は、主人と奴隷に分かれて互いに依存しあって存在していくのである。奴隷者の中からふさわしいものが選択されて、主人の側へと取り込まれていくのである。
まさに人の上に人を造らず、人の下に人を作らずと語った福沢諭吉が述べたことからすれば、このように人に上下を作り差別するこのような人種は、誠に調和を欠いて不公平であって、共存共栄そしてその理念を共にする共通する信義さえも否定し『寡頭勢力』を形成するのである。
この存在はもはや人種とは言えず、それは内的獣種と断定できるのである。そこには何ら情緒性が伴わず、感情が希薄で必然的に心情も乏しいのである。知性だけが突出して過度に発達しているため、その理性すらも危ういのである。知恵が関与しない理性はないのであって、情緒性が伴わない彼らは一体いかなる生命体として存在の意義が付与されているのであろうか。
この母なる地球は、生命の息吹に溢れ、連綿と連鎖するその循環システムによって無限に進歩発展し続けるのである。そこには創造そして適応という、このポジティブな環境順応性として表現されるのである。
他方戦争や紛争破壊、これらネガティブな環境非順応性は、果たして地球出自のものであろうか。故郷を愛するものがなぜ母なる地球を破壊し、汚染し続けるのであろうか。つまりそれは故郷ではないからである。演繹的にもまた帰納法的にも、この事を証明出来るのであって、私たち人類は母なる地球の住人であって、地球環境順応適応者である。
彼らの母星ハビタブルゾーンとして忽然と飛来し密かに入植したのだろう。しかし彼らの母星環境との近似惑星地球環境不適応者であるがために、自らが快適に生存せんとして、出自星系への Assimilate for Sustainability目的でこの母なる地球と人類を作り変えようとしているのである(フォールン・テラフォーミング)。その手法として汚染(環境とDNA)と破壊が繰り返されているのである。
このことによって彼らは映画『ダーク・シティー』に登場する異星人ではないかという可能性が都市伝説として出てくる。
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また、昨今の中国共産党によるクルド人弾圧に見られるジュノサイドや継続するイスラエルでのパレスチナ弾圧など枚挙に切りが無い。当たり前のこととして、共存・共栄・共有・共義できないのです。思わず、今見終わった映画『レプリケート/Repulicate複製・襲撃-(原題Assimilate同化)』に意味深になった大晦日を迎えていた….。
ローマ人への手紙 第5章
12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
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